Future
Mobility

EV コンバートはじまる

  • 2017.8.31
  • TEXT SHOGO JIMBO
  • PHOTOGRAPH YUYA SHIMAHARA

新しい感動のはじまり
幼い頃、はじめて自転車が乗れた時のように。学生時代、はじめてバイクのスロットルを開けた時のように。念願の自動車免許をとって、はじめてクルマでドライブに出かけた時のように。いつもそこにはかつてない自由への感動があった。一方、そんな感動が歳を重ねる度、いつまでも続くものだと思い込んでいた。我々はそんな感動を今も忘れぬようクリエイティブな感性を頼りに数々のプロジェクトに取り組んできた。それもこれも現在のモーターカルチャーに一石を投じるべく、マシンを操る愉しみやインディペンデントなクルマ作りを駆使し、様々な人たちを奮い立たせる仕掛けを随所に散りばめてきた。

よりパーソナルな存在へ
効率化の名の下に、かつて特別な存在であったクルマは、時代の波と共にコモディティ化が著しい。クルマを運転しなくなる日もそう遠くはないだろう。決してそういった時代の流れを全否定する気はないけれど、ガソリン車をはじめとしたテクノロジーが成熟しきった今、かつて我々が未来の乗り物として思い描いていたモビリティ像を実現できないものか探ってみたい。そこで、これまでの我々のプロジェクトと比べ、よりパーソナルな視点で、単なるクルマという物ではなく、相棒というべき存在として捉えてみたい。

ディレクター神保が学生時代を共にしたBMW初代3シリーズ。幾度となくトラブルに見舞われながらも思い出深いエピソードを築いてきたこのクルマは掛かけがえのない1台。ちなみに手に持っているのは卒業証書。

ここに1台のBMWがある。私が大学生の時に実際の足として使っていたものだ。輸入車専門の中古車販売店でバイトして見つけた元祖BMW3シリーズは、当時から既にくたびれてはいたが、学生時代を共にした掛けがいのない相棒だ。そんなクルマをいつしか最新のテクノロジーをもってレストアすることを夢見て、自身の地元、九州に保管場所を転々としながらも今日まで寝かせたままにしていた。人間であれば、寿命を迎えてしまうと蘇らせることは現代の医療をもってしても不可能だが、果たしてクルマはどうだろう?思入れのある1台をまた相棒として蘇らせることが現実的なものなのか?