ウソ800!?
数年前に紹介したイタリア人デザイナー、Gianluca Gimini(ジャンルカ・ジミニ)のVelocipediaは、今みてもユニークだが、最新作はユーモアの度合いが増している。まずは彼が発表した物語をご一読いただきたいところだが、果たして何処までが本当で、何所までが作り話なのか次第にわからなくなる。本人曰く、このストーリーはアートプロジェクトであることを強調して欲しいとのことだが、このゾクゾクする感じがアートなのだろうか。あまりここで話すとネタバレになるので、この辺にしておくが、2022年1月3日に公開されたジャンルカ渾身のアート “フィクション” ストーリーをDRIVETHRU特別翻訳にてどうぞ。
はじめに
1989年2月19日。それはあるひとりのイタリア人新聞記者の人生を大きく左右する出来事でした。しかし彼はそれを32年間、秘密にし続けました。その記者は、私の叔父、エロスです。最近、彼は私に80年代と90年代に直面した驚くべき真実に気づかせてくれました。彼は今ではかなり高齢で、この事実を明らかにすることを望んでいます。私は彼がこれまでに集めた資料をここに共有できることを光栄に思います。
この話は、スピードとレースへの情熱に魅せられたとても影響力のあるグループのストーリーです。彼らは秘密のレーシングクラブを設立していました。その当時、もしもこの話が公になっていたなら、彼らのキャリアはなきものになっていたでしょう。私の叔父は偶然にも、そんな秘密のレーシングクラブを発見し、それを長らく秘密にしておいただけでなく、そのVIPなストリートレーサーのグループと親交を深めていたのです。
深夜の多重放送にコード化されたメッセージを発見
シークレットクラブのメンバーがミーティングの場所や日時を知らせるために使ったのは、深夜のテレビの文字多重放送のTelevideo(テレビデオ)でした。これはTV界に影響力のあるメンバーのコネクションを駆使すれば、いとも簡単にハッキングできる方法でした。そのため彼らは「Televideo Racing Club」と呼ばれました。
1988年11月の深夜。私の叔父エロスは、ほんの数時間、表示されるテレビデオのメインメニューに不思議なパターンを発見したのです。すぐに彼は、それらが逆に書かれた都市と、日付、時間、名前を表していることに気づきました。
1989年2月19日。信じられないことに、深夜のテレビデオのメニューに映し出されたのは自分の街<イモラ>であることを解読しました。その時、彼はテレビデオを使って秘密の会合を呼びかけている誰かの情報を掴むことに成功したのです。会合の日時は3月10日の早朝。見知らぬ誰かがイモラで何かを計画しているようでした。
生涯を賭けた調査に向けて
アラームは1989年3月10日早朝5時に設定されました。当時39歳だったエロスは、職場から借りたハンディカムをバッグに詰めました。家を出る直前に、彼は新しいフィルムをセットし、おもむろに窓の外に向けて、写真を撮りました。フィルムが適切にロールしたことを確認するために。
セキュリティを突破した叔父のセルフポートレイト
ペダーニャ地区の自宅を出発し、叔父はダウンタウンに向かい、メイン広場に組織的な集まりの手がかりがないか探し始めました。けれども、手がかりは何も見つからず、パラルッギスポーツホールに向かって歩いていた時のことです。サーキットを疾走するエンジン音が聞こえたのです。
彼は地元の新聞記者だったので、イモラ・サーキットのイベントカレンダーを把握していました。しかし、その日はイベントやテスト走行は予定されていませんでした。
彼はサーキットの正面ゲートに向かって走り始めましたが、程なくしてセキュリティにブロックされました。警備員にジャーナリストカードを見せても相手にされません。そこで、彼は監視が手薄な裏口より侵入することにしました。
わずかな記録映像
エロス叔父さんは、何とかサーキット内に侵入することができました。しかし、調査できる時間はわずかしかありません。この映像は1989年3月10日金曜日にイモラ・サーキット内で、許可なくスーパー8mmフィルムで撮影した証拠映像です。
映像の終盤では、実際に叔父さんを脅して追い払った警備員が映っています。サーキットを後にモンテ・カステラッシオの丘を急いで駆け下りていた時、エロス叔父さんは転んでしまい、職場から借りていたそのビデオカメラを壊してしまいました。これ以降は、Nikon RD2のフィルムカメラを使った調査を行います。
記念すべき最初の1枚
上:これはエロス叔父さんが撮った最初の1枚です。クオリティは決してよくはないですが、それでも重要な証拠のひとつです。
下:この写真は、エロス叔父さんがすでにサーキットを追い払われた後に撮影されました。彼はパドックの入り口のすぐ外にいて、エンジン音に引き寄せられていた何人かの年配の男性と混ざり合っていました。突然、ドライバーの1人(ラファエルピズとされる)がサポートトラックを探しているときに誤ってパドックエリアを出てしまいました。ほんの一瞬でしたが、彼の車を見るには十分な時間でした。フェラーリではなかったので、数メートル離れたところに立っている年配の男性は怒ることはなかったようです。
エロス叔父さんは、この発見をどう理解すればいいのかまだよく分かりませんでした。このポルシェ953には「Striscia la Notizia」というデカールがフロントスクーリンに貼られていましたが、その時、彼は自分のスクープ映像は、彼らが収録している新しいテレビ番組なのではと思っていました。一方で、なぜ彼らがテレビデオのコード化されたメッセージを通して日付と場所を共有しているのか疑問に感じました。
秘密組織の存在に気づく
3月10日のイモラでのレースの後、数週間が経ち、叔父は常に深夜のテレビデオをチェックし続けていました。4月1日土曜日、秘密の会合はミラノで行われました。叔父さんは正確な場所を見つけることができず、調査を断念。4月22日金曜日はサンポティートでした。ルーゴ・ディ・ロマーニャの近くの小さな町のことを考えましたが、何も見つかりませんでした。しかし、それがサンポティートサニティコ(彼の故郷のイモラから非常に遠い)でのラリーであることに気づきました。
叔父は5月20日にミサノのVIPレースを見つけることができました。それはジャンフランコ・ダンジェロ(上の写真)が参加した数少ないイベントの1つでした。彼はミサノのサーキットのパドック内でビュイック・グランドナショナルでバーンアウトをしていました。彼が叔父のカメラをまっすぐ見ているのがわかります。叔父さんは、この後、どこからともなくやって来たセキュリティサービスによって、再び敷地外に連れ出されてしまいました。おそらく彼がトランシーバーを持っていたと思われます。この時、叔父さんは何らかの巨大な組織が存在することを理解したのです。VIPメンバーが集う秘密のレーシングクラブの存在を。
叔父の今後を左右する出来事
叔父の日記によれば、テレビデオレーシングクラブは1989年6月10日と7月1日にチェルノッビオ(コモの近く)とカッシーノ(フロジノーネの近く)でイベントを開催しました。しかし、エロス叔父さんはそこへは出かけませんでした。その後、テレビデオはしばし動きがありませんでした。叔父さんはそれがほんの短い休止期間であることを望みましたが、それ以降、何週間にもわたって何も発信されませんでした。
8月の終わりに、深夜のテレビデオに新たなコード化されたメッセージが表示されました。イベントは、9月9日の早朝にサンレモで開催されます。エロス叔父さんはこの機会を逃すわけにはいきませんでした。ミサノのテレビ番組のパーソナリティのほとんどは、ミラノから到着するので、前日にサンレモを旅行していたと彼は推測しました。1989年9月8日。私の叔父は高速道路のサービスエリアで約6時間も張り込みました。午後3時頃、彼は高速道路で不審な車に気づきました。上の写真の巨大なトラックです。
トラックが回り道をして、人けのない場所に立ち寄ったのはヴァラッツェの近くでした。叔父は遠くから偵察していました。2台のBMW M1がトレーラーから降ろされ、2名の男性によって徹底的に洗車されていました。その二人の男が数分間、トレーラーに戻っている間、2台のBMW M1は太陽の下で乾かされていました。これは叔父がその瞬間に収めた最高のショットです。BMWがトラックに戻されサンレモに運ばれた直後。叔父は安全な距離からトラックを追跡しました。すでに彼はテレビデオレーシングクラブの集まりで2度も捕まっており、再び捕まるわけにはいかないと必死でした。
マイクの恐ろしい事故
1989年9月9日早朝。サンレモとピエトラリーグレの間でストリートレースが行われました。55kmの区間を最も速くゴールした者が、勝者になります。
叔父は撮影するのに完璧な場所をみつけました。身を隠すのに十分な場所がありつつ、視界は比較的、遮られていませんでした。
パオラB.は、ゼッケン23番のBMW M1のドライバーでした。10分後、ゼッケン22番の彼女のチームメイト、マイクの出番でした。彼らはクラブの中でも群を抜いて資金をレースに投じていました。2台でレースをしているのは彼らだけです。
この変わり果てたゼッケン22番のBMW M1はマイクのレーシングカーです。おそらく彼はコーナーの侵入速度が速すぎて制御を失い、スピンアウトして岩壁に激突してしまいました。叔父さんはその瞬間をただただ恐ろしいと後に表現しています。叔父さんはほんの数メートル離れてたところで、M1が止まった数秒後に車に駆け寄りました。マイクの意識はありましたが、シートベルトを外すのに苦労していました。その時、ガソリンがタンクから漏れていたので、車が炎上するのではないかと恐れていました。マイクのバックルを外すのを手伝い、彼を車から引き出しました。マイクを道端に座らせ、彼と一緒に救急車を待ちました。マイクは救急車に私の叔父(彼にとっては全く見知らぬ人)も一緒に乗るように頼んだのでした。
1989年のパーティー風景
上の写真は、1989年9月9日に撮影されました。叔父は救急車の中でも病院でも一切、写真を撮りませんでした。幸いなことに、マイクは手首に小さな打撲と痛みの軽傷ですみました。サヴォーナの病院で、医師がX線、スキャン、MRIなどの検査をはじめた頃、テレビデオレーシングクラブのメンバーがすぐに病院に到着して院長とすべてのレーサーの間の秘密保持契約がその場で交わされました。翌日の地元の新聞には、マイクがハイキングで怪我をしたと報じられました。その話は全国的なニュースにさえなりませんでした。
神経内科医が訪れた後、マイクは個室を与えられ、友人たちは会うことを許されました。マイクはとても元気で、叔父をテレビデオレーシングクラブのメンバーに紹介しました。今まで秘密のイベントの招かれざる客であった叔父さんが、オフィシャルな存在になったのはマイクの病室での出来事でした。
その晩、マイクは病院にとどまり、レースもキャンセルされましたが、ピエトラ・リーグレのアフターパーティーは行われました。マイクは、たとえパーティに参加できなくても、大クラッシュからの生還を祝って欲しいと主張しました。
1989年9月9日の夜。ピエトラ・リーグレのディスコでパーティは開催されました。叔父の隣の女性は、チームRuota della Fortunaのメカニックのはずですが、定かではありません。彼はその夜、彼女とは運がなかったと言っていましたが、それでも彼がこれまでに生きた中で、最も記憶に残る1日だったことでしょう。
不審者からオフィシャルフォトグラファーに
叔父の写真のアーカイブには1989年9月から1990年12月の空白の期間があります。マイクの事故後、叔父さんは公式なゲストとして迎え入れられましたが、クラブの秘密を守ることはすべてのメンバーにとって最優先事項でした。そのため、誰もが彼の存在に気づき、叔父は写真を撮ることに不安を覚えました。しかし、およそ1年をかけて、クラブ内での誠実な友情を育むことに成功したエロス叔父さんは、レーシングクラブの活動記録を再開するよう求められたのです。
これらは彼が撮った最初のオフィシャルフォトの2つです。
上:イーヴァ・ザニッキのチームは、最もアグレッシブな勝利を収めたチームの1つでした。彼らは大勢の取り巻きを連れて、350馬力のアウディ・クワトロをドライブし、テレビ番組「OK Il Prezzo è Giusto」のカラーリングを披露しました。
下:1986年のプジョー・205 T16 エボ2。ロベルト・セリオッティとカルロッタ・ブランビラ・ピソニは1989年に共同で購入し、翌年、正式にクラブに参加しました。
クラブ史に残る一大スキャンダル
このスキャンダルは、上の写真が撮影される1か月前(1991年5月初旬)に始まりました。クラブはラリーのためにルッカの近くのどこかで会合していました。叔父はその時、出席していませんでした。普段はソロで走っているジャンニ・ボンコンパニは、見知らぬ女性ドライバーを伴ってランチア・デルタS4で現れました。その時、コ・ドライバーを勤めたのは未成年のアンブラ・アンジョリーニでした。彼女は1年後にテレビデビューを予定していました。若さとVIPたる常識の欠如は、古株のクラブメンバーにとっての格好のスキャンダルとなりました。アンブラはその日に複数のメンバーによって運転するところを目撃されます。しかし、ランチア・デルタは最終的にレースで勝利を収めました。
誰がエロス叔父さんに電話をかけたのかはわかりませんが、次のレースに出席して未成年のドライバーの調査をするように頼んだのは、クラブ内で影響力があるメンバーでした。ほとんどのシニアメンバーは、アンブラがクラブから永久追放されることを望んでいました。そのためには、不正行為の証拠が必要でした。しかし、そもそもすべてのストリートレースは公道を閉鎖して行うため、未成年であること自体が失格になることはありませんでした。
この写真は、叔父が調査の一環として次のレース(1991年6月8日に開催されたヴィチェンツァ近くのヒルクライム)で撮影したものです。アンブラは疑いもなくカメラに向かって大きく笑っています。
スパイバンをレンタル
アンブラのスキャンダラスなデビュー後、レーシングクラブ内で怒りを露わにしたメンバーは、彼女が失格になることを望み、エロス叔父さんを雇ってチームの粗探しを命じました。彼は非常に優秀な調査記者でした。
この調査をはじめたシニアメンバーは、その後、悔い改めたため匿名のままとなりますが、わずか2週間で、彼の根拠のない陰謀説がクラブ内で大きな勢いを得たことは事実でした。最初はぼんやりとしていた疑いも、すぐに具体的になりました。アンブラのような若い年齢でそれほどうまく運転できるわけがなかったので、コ・パイロットに転向したエージェントのジャンニ・ボンコンパニは助手席側から車をコントロールしていたに違いありません。
そんな大胆な疑いを証明し、アンブラとジャンニ・ボンコンパニの二人の追放をするべく、匿名のシニアメンバーは、調査のために叔父さんにスパイバンを手配しました。当時、イタリアに存在することが知られていた数少ない1台です。エロス叔父さんは1991年5月30日にミラノでそのバンを受け取り、アンブラの最後のレースに臨みました。ヒルクライムレース本番、1週間前に叔父さんはスパイバンの完璧な操作を覚える時間が与えられました。
叔父さんのスパイ活動が再び
もはやエロス叔父さんにとって、この画像を撮影する必要はありませんでした。このスパイ活動に資金を投じた影響力のあるシニアメンバーは、非常に高ぶっていたので、叔父さんにフルタイムで調査を求めました。
叔父さんの調査の結果、アンブラのイヤピースを録音することができました。その録音記録によって、これまでの噂は静まりました。
コ・ドライバー、ボンコンパニの助手席には隠されたコントロールペダルがなかったことが判明しました。ステアリングもペダルもありません。彼はブレーキを操作していませんでした。アンブラは、本当にドライブしていたのです。しかし、ジャンニ・ボンコンパニは、彼がドライバーの時よりも遥かに優れたコ・ドライバーであることが判明しました。彼は、一般的なコ・ドライバーが提供する情報より、rpmや足の位置、リアルタイムの表示まで、ほぼすべてにおいて非常に正確な指示を出していました。そして、アンブラは一瞬の狂いもなく正確にドライブしていたのです。当時、彼女は初心者であり、ボンコンパニがシフトチェンジするタイミングとコーナリングの走行方法をこんなにも正確に教えてくれなかったなら、これほどまでに上手ではなかったでしょう。
叔父のアーカイブフォトより
上:チームウルカ! パオロ・ボノリスとルカ・ラウレンティは、1991年のルーキーイヤーに右ハンドルの4WD MG・メトロで走りました。ほぼ400馬力に匹敵!
下:ポルシェ935に乗るエツィオ・グレッジョ。ラファエル・ピズの引退後、エツィオはStriscia la Notiziaの新しいパーソナリティに彼のコ・ドライバーになるようリクエストしました。
上:黄色いヘルメットを被った美しきイーヴァ・ザニッキのポートレイト。なぜ、エアブラシでイーグルをペイントしたのだろうか? イーヴァのキャリアは歌手として始まりました。 彼女の驚くべき歌声は「リゴンキオの鷲」とも呼ばれました。
下:リモーネ・ピエモンテにあるイーヴァのアウディ・クワトロ。ラリーはクラブメンバーにとってお気に入りのレースであり、人里離れた場所での早朝のラリーは非常に理にかなった選択でした。
1993年4月17日。ジャンニ・ボンコンパニとアンブラのランチア・デルタS4は、このカラーリングでデビューしました。ジャンニは、レース当日、TV番組「Non è la Rai」のカラーリングでアンブラを驚かせました。その際、ジャンニは同年9月にその番組のプレゼンターになることを彼女に発表していました。これはエロス叔父さんの目の前で作られたイタリアのテレビの歴史でした。
アンブラへのこの大きなサプライズのために、ジャンニは叔父さんへ、すべての記録を依頼しました。叔父さんは、通常なら住まいのあるイモラの自宅から遠く離れた場所で行われるレースには参加していなかったのだが、ジャンニは、叔父さんのすべての費用を負担しました。
テレビデオレーシングクラブのハイライト
エロス叔父さん曰く、最もエキサイティングなシーズンが92年と93年、そして1994年だったといいます。
上:アルファロメオ・75に乗ったジーノ・ブラミエリの珍しいショットです。この車を壊れたパトカー(イタリアの警察車両だった)と言う人もいれば、ディーラーからやってきたノーマルのアルファ・75だったと言う人もいました。しかし、ボンネットの下には、400馬力を誇るギャレット・ターボ・コンプレッサーを搭載した4気筒ツインカムを見つけることができるでしょう。アルファロメロ・75・Turbo Evoluzione IMSAとの類似性は目を見張るものがあります。ブラミエリはニコラ・ラリーニやミキ・ビアシオンを含むプロのドライバーと友達だったと言われています。
下:Roberto Ceriotti(チームBim Bum Bam)と、チーム「Paperissima」のMarco ColumbroとLorella Cuccariniのスナップ。
これはアジアーゴで開催された伝統的なサンタルチアラリーのチームPaperissimaです。93年のシーズンは、おそらくテレビデオ・レーシングクラブの絶頂期でした。1992年から1994年の間に、すべてのメンバーが熱心に参加し、オフィシャルグッズも作られるようになりました。ステッカー、ワッペン、カーデオドラントなどなど、あくまでグループ内だけで。
時代の終わり
エロス叔父さんが言うには、95年と96年はまともなシーズンでしたが、参加率は低かったといいます。叔父さん自身もレースイベントにあまり出席していませんでした。クラブメンバーの中には、あまりにも多くの人々がその存在に気づいていてエスカレートし過ぎているのではないかと心配しているメンバーもいました。それに、メンバーの多くは本業が忙しかったともいえます。
クラブ自体が正式に解散することはありませんでしたが、1997年シーズン以降、レース活動は行われませんでした。その年、アドリアーナ・ボルペとエンリコ・パピという2人の新しいドライバーが加わりました。惜しくも、彼らはクラブの最期を決定づけることになってしまいました。
ヴォルペとパピはどちらも異なるチームでソロで走り、すべてのレースですぐに1位と2位を獲得しました。彼らは、当時、新世代だったトヨタ・チェイサーとMR-2でレースに参加しました。今までの参加車両は、最新の電子制御のエンジンを積んだクルマに、太刀打ちすることができませんでした。そして、ほとんどのシニアメンバーは、新世代のエレクトロニクスを理解できませんでした。彼らは、これらのクルマを、まるで自動運転であるかのように考え、敬意を払うことができなかったのです。2台のクルマは素晴らしい車だったので、とても残念な結果です。
この写真では、エロス叔父さんがこれまでに参加した最後のレース(クネオ近くのエルバで開催)の証拠を捕らえています。アドリアーナ・ボルペがライオントロフィーショーのチェイサーで優勝を飾ったので、この写真を選びました。
叔父さん主催ミラノの記念撮影イベント
97年シーズンの後、クラブはレースを行わずに何度か集まり、それはいつもディナーパーティーやカクテルパーティでした。そこで、エロス叔父さんがミラノで写真撮影を企画するという素晴らしいアイデアを思いつきました。1998年のことでした。メンバーの多くは、もう一度、レーシングスーツを着て、レーシングカーの横で記念写真を撮ることに快く参加しました。数台のクルマはこの日のためにレストアされたといいます。ここに9枚の写真を紹介します。
この物語を世界に共有することを許してくれたエロス叔父さんに感謝します
この記事のトップ画像に選んだのは、エロス叔父さんと彼の愛車トヨタ・MR2が並んだ1993年4月9日の写真です。彼の大好きなカステル・ボロニェーゼのクラブ「ルキュポールディスコ」の駐車場内で撮影されました。エロス叔父さんと私は、このストーリーが、彼が集め続けたテレビデオレーシングクラブのノベルティや膨大なアーカイブと共に展示会を開催できることを願っています。
【免責事項】
「Televideo Racing Club」はGianluca Gimini(ジャンルカ・ジミニ)によるアートプロジェクトです。上記のすべての画像はデジタルで作成されており、現実を表すものではありません。これは完全なる架空の物語です。登場するテレビのキャラクターは実際のイタリアの公人です。ジャンルカのプロジェクトは、彼らのイメージを傷つけることを決して目的としていません。それどころか、ジャンルカの最も愛するアイコンのいくつかに焦点を当て、それらについて述べたテキストをオマージュしています(※ラブレターではないそうです)。この物語は、80年代後半/ 90年代前半に幼少期をすごした子供にとってのヒーローを描いた作品です。
※.当時の叔父エロスを演じているのはジャンルカ本人です。